静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
 兼松石居《かねまつせききょ》はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免《こんにちわれめんをしる》。亦将騎鶴遊《またつるにのりてあそばんとす》。上帝賚殊命《じょうていしゅめいをたまう》。使爾永相休《なんじをしてながくあいやすましめんと》。」「年浪《としなみ》のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟|漕《こ》ぎ出《い》でむ。」石居は酒井《さかい》石見守《いわみのかみ》忠方《ただみち》の家来|屋代《やしろ》某の女《じょ》を娶《めと》って、三子二女を生ませた。長子|艮《こん》、字《あざな》は止所《ししょ》が家を嗣いだ。号は厚朴軒《こうぼくけん》である。艮の子|成器《せいき》は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国|市川町《いちかわまち》に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

   その百

 抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月《いちげつ》二十五日津軽|承昭《つぐてる》は藩士の伝記を編輯《へんしゅう》せしめんがために、下沢保躬《しもさわやすみ》をして渋江氏について抽斎の行状を徴《め》さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采択《さいたく》せられしや否やを審《つまびらか》にしない。
 保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
 山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息《ぜんそく》を気遣《きづか》っていたが、脩が矢島|優《ゆたか》と共に『魁《さきがけ》新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲《ぼういん》の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧《おそ》れ、急に命じて浜松に来《きた》らしめた。しかし五百は独り脩の身体《しんたい》のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも慮《おもんばか》ったのである。
 この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
 抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許《ていきょ》せられた。これは慶応義塾に入《い》って英語を学ばんがためである。
 これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずに
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