いた。師範学校に入ったのも、その業を卒《お》えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして為《な》したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞《そくぶん》し、頗《すこぶ》る福沢諭吉《ふくざわゆきち》に傾倒した。明治九年に国学者|阿波《あわ》の人某が、福沢の著《あらわ》す所の『学問のすゝめ』を駁《はく》して、書中の「日本《にっぽん》は※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さいじ》たる小国である」の句を以て祖国を辱《はずかし》むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書《しゅしょ》して保に謝した。保はこれより福沢に識《し》られて、これに適従《てきじゅう》せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
 保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索《もと》めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区|松本町《まつもとちょう》十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
 五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著《つ》いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下《しっか》に侍することを得たが、独り矢島|優《ゆたか》のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用|掛《がかり》を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
 陸《くが》は母と保との浜松へ往った後《のち》も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木《みき》が同居していた。勝久は水木の夫であった畑中藤次郎《はたなかとうじろう》を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
 保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武《なかにしつねたけ》である。
 山田は遠江国《とおとうみのくに》敷智郡《ふちごおり》都築《つづき》の人である。父を喜平といって、畳問屋《たたみどいや》である。その三男要蔵は元治《げんじ》元年|生《うまれ》の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国|度会郡《わたらいごおり》山田|岩淵町《いわぶちちょう》の人
前へ 次へ
全223ページ中190ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング