旁《かたわ》ら新聞社に寄稿したのである。
 抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併《あわ》せられたのである。しかし保の職は故《もと》の如くであった。
 この年四月に保は五百の還暦の賀延《がえん》を催して県令以下の祝《いわい》を受けた。
 五百の姉長尾氏|安《やす》はこの年|新富座附《しんとみざつき》の茶屋|三河屋《みかわや》で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は後《のち》敬の夫|力蔵《りきぞう》が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
 比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年|生《うまれ》であるから、六十五歳を以て終ったのである。その後《のち》を襲《つ》いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
 小野|富穀《ふこく》もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子|道悦《どうえつ》が家督相続をした。
 多紀|安琢《あんたく》もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《げんえん》、号は雲従《うんじゅう》であった。その後を襲いだのが上総国《かずさのくに》夷隅郡《いすみごおり》総元村《そうもとむら》に現存している次男|晴之助《せいのすけ》さんである。
 喜多村|栲窓《こうそう》もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村《おおつかむら》に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身《ゆうはんしん》不随になり、此《ここ》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》って終った。享年七十三である。
 抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松|表早馬町《おもてはやうまちょう》四十番地に一戸を構え、後また幾《いくばく》ならずして元城内《もとじょうない》五十七番地に移った。浜松城は本《もと》井上《いのうえ》河内守《かわちのかみ》正直《まさなお》の城である。明治元年に徳川家が新《あらた》にこの地に封《ほう》ぜられたので、正直は翌年上総国|市原郡《いちはらごおり》鶴舞《つるまい》に徙《うつ》った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅《ていたく》で、大手の左右に列《つらな》っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
 この年七月四日に保の奉職している
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