》ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直《すぐ》に三百石を食《は》み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生《うまれ》であるから、四十七歳で歿したのである。
 輔之には登勢《とせ》という女《むすめ》一人《ひとり》しかなかった。そこで病《やまい》革《すみやか》なるとき、信濃《しなの》の人|某《それがし》の子を養って嗣《し》となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が為隣《いりん》で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保《かんぽう》元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春《げんしゅん》を二世|玄瑳《げんさ》と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人《びぼうじん》として遺《のこ》された。
 寛保二年に十五歳で、この登勢に入贅《にゅうぜい》したのは、武蔵国《むさしのくに》忍《おし》の人|竹内作左衛門《たけのうちさくざえもん》の子で、抽斎の祖父|本皓《ほんこう》が即ちこれである。津軽家は越中守|信寧《のぶやす》の世になっていた。宝暦《ほうれき》九年に登勢が二十九歳で女《むすめ》千代《ちよ》を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋《つな》ぐべき子で、あまつさえ聡慧《そうけい》なので、父母はこれを一粒種《ひとつぶだね》と称して鍾愛《しょうあい》していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を令図《れいと》といったが、渋江氏を続《つ》ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医|小野道秀《おのどうしゅう》の許《もと》へ養子に遣《や》って、別に継嗣《けいし》を求めた。
 この時|根津《ねづ》に茗荷屋《みょうがや》という旅店《りょてん》があった。その主人|稲垣清蔵《いながきせいぞう》は鳥羽《とば》稲垣家の重臣で、君《きみ》を諌《いさ》めて旨《むね》に忤《さか》い、遁《のが》れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男|専之助《せんのすけ》というのがあって、六歳にして詩賦《しふ》を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、快《こころよ》く許諾した。
前へ 次へ
全223ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング