大村には勝重の往《ゆ》く前に、源頼朝《みなもとのよりとも》時代から続いている渋江|公業《こうぎょう》の後裔《こうえい》がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無《ゆうむ》は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国|那須郡《なすごおり》大田原の城主たる宗家《そうか》ではなく、その支封《しほう》であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信《きよのぶ》、扶清《すけきよ》、友清《ともきよ》などの世であったはずである。大田原家は素《もと》一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清《びぜんのかみまさきよ》が主膳高清《しゅぜんたかきよ》に宗家を襲《つ》がせ、千石を割《さ》いて末家《ばつけ》を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今|手許《てもと》に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を他人《たひと》といって、後|小三郎《こさぶろう》と改め、また喜六《きろく》と改めた。道陸《どうりく》は剃髪《ていはつ》してからの称である。医を今大路《いまおおじ》侍従|道三《どうさん》玄淵《げんえん》に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽|越中守《えっちゅうのかみ》信政《のぶまさ》に召し抱えられて、擬作金《ぎさくきん》三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永《ほうえい》と改元せられた年である。師道三は故土佐守|信義《のぶよし》の五女を娶《めと》って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随《したが》って津軽に往き、四年正月二十八日に知行《ちぎょう》二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守|信寿《のぶしげ》の世になっていた。辰盛は享保《きょうほう》十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守《でわのかみ》信著《のぶあき》の家を嗣《つ》いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享《う》くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
辰盛は兄重光の二男|輔之《ほし》を下野から迎え、養子として玄瑳《げんさ》と称《とな》えさせ、これに医学を授けた。即《すなわ
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