|北岡太淳《きたおかたいじゅん》、手塚元瑞《てづかげんずい》、今春碩《いまはるせき》らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村|春台《しゅんたい》、三上道春《みかみどうしゅん》、北岡|有格《ゆうかく》、小野圭庵《おのけいあん》の如きものがある。その他|小山内元洋《おさないげんよう》のように新《あらた》に召し抱えられたものもある。しかし江戸|定府《じょうふ》出身の少《わか》い医者がない。ちと医業の方をも出精《しゅっせい》してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽|承昭《つぐてる》に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦《たたかい》を大星場《おおほしば》に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍《かたわら》に侍した成善をして小野に代らしめた。此《かく》の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下《じょうか》皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が闕《か》けていたといっても好《よ》かろう。
矢島|優善《やすよし》は前年の暮に失踪《しっそう》して、渋江氏では疑懼《ぎく》の間に年を送った。この年|一月《いちげつ》二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百《いお》に宛《あ》て、一は成善に宛ててある。並《ならび》に訣別《けつべつ》の書で、所々《しょしょ》涙痕《るいこん》を印《いん》している。石川は弘前を距《さ》ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った後《のち》に手紙を届けたのである。
五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥《ふ》しはせぬかと気遣《きづか》って、再び人を傭《やと》って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐《おおわに》、倉立《くらだて》、碇関《いかりぜき》等を隈《くま》なく尋ねた。しかし蹤跡《しょうせき》は絶《たえ》て知れなかった。
優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋|湊屋《みなとや》に著《つ》いた。湊屋の上《かみ》さんは大分年を取った女で、常に優善を「蝶《ちょう》さん」と呼んで親《したし》んでいた。
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