優善はこの女をたよって往ったのである。
湊屋に皆《みな》という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の呼物《よびもの》になっていた。みいちゃんは津藤《つとう》に縁故があるとかいう河野《こうの》某を檀那《だんな》に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを娶《めと》って、優善が東京に著いた時には、今戸橋《いまどばし》の畔《ほとり》に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀《さんやぼり》の箱屋になり、主《おも》に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という骨董店《こっとうてん》に入贅《にゅうぜい》した。安田の家では主人|礼助《れいすけ》が死んで、未亡人《びぼうじん》政《まさ》が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
この頃|前《さき》に浦和県の官吏となった塩田|良三《りょうさん》が、権大属《ごんだいさかん》に陞《のぼ》って聴訟係《ていしょうがかり》をしていたが、優善を県令に薦《すす》めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。
その八十九
専六は兵士との交《まじわり》が漸《ようや》く深くなって、この年五月にはとうとう「於軍務局楽手稽古被仰付《ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこおおせつけらる》」という沙汰書《さたしょ》を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に山田源吾《やまだげんご》の養子になった。源吾は天保中津軽|信順《のぶゆき》がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、旨《むね》に忤《さか》って永《なが》の暇《いとま》になった。しかし他家に仕えようという念もなく、商估《しょうこ》の業《わざ》をも好まぬので、家の菩提所《ぼだいしょ》なる本所|中《なか》の郷《ごう》の普賢寺《ふけんじ》の一房に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》し、日ごとに街《ちまた》に出《い》でて謡を歌って銭を乞《こ》うた。
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附《もんつき》の衣類、上下《かみしも》等を葛籠《つづら》一つに収めて持っていた。
承昭《つぐてる》はこの年源吾を召し還《かえ》して、二
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