後、南部等の生《うまれ》のものが紛《まぎ》れ入《い》っているなら、厳重に取り糺《ただ》して国境の外に逐《お》えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指《めざ》された。中条は常陸《ひたち》生だといって申し解《と》いたが、役人は生国《しょうこく》不明と認めて、それに立退《たちのき》を諭《さと》した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
冬になってから渋江氏は富田新町《とみたしんまち》の家に遷《うつ》ることになった。そして知行《ちぎょう》は当分の内六分|引《びけ》を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の外《ほか》何の給与もなかった。これが後《のち》二年にして秩禄《ちつろく》に大削減を加えられる発端《ほったん》であった。二年|前《ぜん》から逐次に江戸を引き上げて来た定府《じょうふ》の人たちは、富田新町、新寺町《しんてらまち》新割町《しんわりちょう》、上白銀町《かみしろかねちょう》、下《しも》白銀町、塩分町《しおわけちょう》、茶畑町《ちゃばたちょう》の六カ所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町《えどこまち》、新寺町新割町には大矢場《おおやば》、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野|貞固《さだかた》、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
この頃五百は専六が就学《じゅがく》問題のために思《おもい》を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を須《ま》たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を攻《おさ》めるのを見て、毫《ごう》も容喙《ようかい》せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の詮議《せんぎ》をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町《おやかたちょう》に住んでいる近習医者|小野元秀《おのげんしゅう》を獲《え》た。
その八十四
小野元秀は弘前藩士|対馬幾次郎《つしまいくじろう》の次男で、小字《おさな
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