ょう》することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は経史《けいし》を兼松石居《かねまつせききょ》に学んだ。江戸で海保竹逕《かいほちくけい》の塾を辞して、弘前で石居の門を敲《たた》いたのである。石居は当時既に蟄居《ちっきょ》を免《ゆる》されていた。医学は江戸で多紀安琢《たきあんたく》の教《おしえ》を受けた後《のち》、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に所々《しょしょ》に起って、飛脚が日ごとに情報を齎《もたら》した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、新《あらた》に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医|小山内元洋《おさないげんよう》である。弘前ではこれより先藩学|稽古館《けいこかん》に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田|成卿《せいけい》の門人佐々木|元俊《げんしゅん》である。元洋もまた杉田門から出た人で、後|建《けん》と称して、明治十八年二月十四日に中佐《ちゅうさ》相当陸軍一等軍医|正《せい》を以て広島に終った。今の文学士|小山内薫《おさないかおる》さんと画家|岡田三郎助《おかださぶろうすけ》さんの妻|八千代《やちよ》さんとは建の遺子である。矢島|優善《やすよし》は弘前に留《とど》まっていて、戦地から後送《こうそう》せられて来る負傷者を治療した。

   その八十三

 渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
 一行が土手町に下宿した後|二《に》、三月《さんげつ》にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が崇《たたり》を作《な》すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを悪《にく》んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中《なかんずく》丹後《たんご》の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫《あんじゅひめ》で、己《おのれ》を虐使した山椒大夫《さんしょうたゆう》の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
 暴風雨の後《のち》数日にして、新に江戸から徙《うつ》った家々に沙汰《さた》があった。もし丹
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