う額には上《のぼ》らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
 上山を発してからは人烟《じんえん》稀《まれ》なる山谷《さんこく》の間を過ぎた。縄梯子《なわばしご》に縋《すが》って断崖《だんがい》を上下《しょうか》したこともある。夜《よる》の宿は旅人《りょじん》に餅《もち》を売って茶を供する休息所の類《たぐい》が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
 院内峠《いんないとうげ》を踰えて秋田領に入《い》った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主|佐竹右京大夫義堯《さたけうきょうのたゆうよしたか》は、弘前の津軽|承昭《つぐてる》と共に官軍|方《がた》になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
 さて矢立峠《やたてとうげ》を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地|界《ざかい》である。そこを少し下《くだ》ると、碇関《いかりがせき》という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始《はじめ》て慇懃《いんぎん》な詞《ことば》を使うのである。人が雲表《うんぴょう》に聳《そび》ゆる岩木山《いわきやま》を指《ゆびさ》して、あれが津軽富士で、あの麓《ふもと》が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を翻《こぼ》して喜んだそうである。
 弘前に入《い》ってから、五百らは土手町《どてまち》の古着商伊勢屋の家に、藩から一人《いちにん》一日《いちじつ》金|一分《いちぶ》の為向《しむけ》を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て後《のち》に着いた。下宿屋から街《ちまた》に出《い》づれば、土地の人が江戸子《えどこ》々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時|髻《もとどり》を麻糸で結《ゆ》い、地織木綿《じおりもめん》の衣服を著《き》た弘前の人々の中へ、江戸|育《そだち》の五百らが交《まじ》ったのだから、物珍らしく思われたのも怪《あやし》むに足りない。殊《こと》に成善《しげよし》が江戸でもまだ少かった蝙蝠傘《かわほりがさ》を差して出ると、看《み》るものが堵《と》の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は識《し》らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄《いじ》り毀《こわ》されてしまった。
 成善は近習小姓の職があるので、毎日|登城《とじ
前へ 次へ
全223ページ中157ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング