な》を常吉《つねきち》といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜|馳《は》せて医師某の許《もと》に往った。某は家にいたのに、来《きた》り診することを肯《がえん》ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために惜《おし》んで、心にこれを牢記《ろうき》していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、食《くら》うときには箸《はし》を投じ、臥《ふ》したるときには被《ひ》を蹴《け》て起《た》ち、径《ただ》ちに往《ゆ》いて診したのは、少時の苦《にが》き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野|秀徳《しゅうとく》の養子となり、その長女そのに配せられた。
 元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、詰所《つめしょ》に出入《いでいり》するに、朝《あした》には人に先んじて往《ゆ》き、夕《ゆうべ》には人に後れて反《かえ》った。そして公退後には士庶の病人に接して、絶《たえ》て倦《う》む色がなかった。
 稽古館教授にして、五十石町《ごじっこくまち》に私塾を開いていた工藤他山《くどうたざん》は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に就《つ》かなかった時、元秀がその貧を知って、※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]《しょ》を受けずして懇《ねんごろ》に治療した時からの交《まじわり》である。他山の子|外崎《とのさき》さんも元秀を識《し》っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
 元秀の養子|完造《かんぞう》は本《もと》山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子|芳甫《ほうほ》さんは本《もと》鳴海《なるみ》氏で、今弘前の北川端町《きたかわばたちょう》に住んでいる。元秀の実家の裔《すえ》は弘前の徒町《かちまち》川端町の対馬|※[#「金+公」、243−12]蔵《しょうぞう》さんである。
 専六は元秀の如き良師を得たが、憾《うら》むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は毎《つね》に、円頂《えんちょう》の専六が筒袖《つつそで》の衣《い》を著《き》、短袴《たんこ》を穿《は》き、赤毛布《あかもうふ》を纏《まと》って銃を負い、山野を跋渉《ばっしょう》するのを見た。これは当時の兵士の服装であ
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