庵に反対していたが、五百が意を決したので、復《また》争わなくなった。
 優善の移った緑町の家は、渾名《あだな》を鳩《はと》医者と呼ばれた町医|佐久間《さくま》某の故宅である。優善は妻|鉄《てつ》を家に迎え取り、下女《げじょ》一人《いちにん》を雇って三人暮しになった。
 鉄は優善の養父矢島|玄碩《げんせき》の二女である。玄碩、名を優※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《やすしげ》といった。本《もと》抽斎の優善に命じた名は允善《ただよし》であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の初《はじめ》の妻《さい》某氏には子がなかった。後妻《こうさい》寿美《すみ》は亀高村喜左衛門《かめたかむらきざえもん》というものの妹で、仮親《かりおや》は上総国《かずさのくに》一宮《いちのみや》の城主|加納《かのう》遠江守|久徴《ひさあきら》の医官|原芸庵《はらうんあん》である。寿美が二女を生んだ。長を環《かん》といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には僅《わずか》に六歳の鉄が遺《のこ》った。
 優善はこの時矢島氏に入《い》って末期養子《まつごようし》となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
 中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を費《ついや》し、矢島氏の祀《まつり》を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の情誼《じょうぎ》に愬《うった》えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した女《むすめ》鉄は重い痘瘡《とうそう》を患《うれ》えて、瘢痕《はんこん》満面、人の見るを厭《いと》う醜貌であった。
 抽斎は中丸の言《こと》に動《うごか》されて、美貌の子優善を鉄に与えた。五百《いお》は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に出《い》でているので、強いて争うことも出来なかった。
 この事のあった年、五百は二月四日に七歳の棠《とう》を失い、十五日に三歳の癸巳《きし》を失っていた。当時五歳の陸《くが》は、小柳町《こやなぎちょう》の大工の棟梁《とうりょう》新八が許《もと》に里に遣られていたので、それを喚《よ》び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
 棠は美しい子で、抽
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