対して憚《はばかり》があるといって、文字《もんじ》を識《し》る四、五人の故旧が来て、胥議《あいぎ》して斧鉞《ふえつ》を加えた。その文の事を伝えて完《まった》からず、また間《まま》実に惇《もと》るものさえあるのは、この筆削のためである。
 建碑の事が畢《おわ》ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町《かめさわちょう》に移った。これは淀川過書船支配《よどがわかしょぶねしはい》角倉与一《すみのくらよいち》の別邸を買ったのである。角倉の本邸は飯田町《いいだまち》黐木坂下《もちのきざかした》にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに稲荷《いなり》と和合神《わごうじん》との祠《ほこら》があった。稲荷は亀沢稲荷といって、初午《はつうま》の日には参詣人《さんけいにん》が多く、縁日|商人《あきうど》が二十|余《あまり》の浮舗《やたいみせ》を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今|相生《あいおい》小学校になっている地所である。
 これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。

   その六十九

 矢島優善をして別に一家《いっか》をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の末《すえ》から、中丸昌庵《なかまるしょうあん》が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩《せいはい》に推されていた。文政元年|生《うまれ》であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得|違《ちがえ》から貶黜《へんちつ》を受けた。しかし幸《さいわい》に過《あやまち》を改めたので、一昨年|故《もと》の地位に複《かえ》り、昨年は奥通《おくどおり》をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら新《あらた》にすべき時は今である。それには一家を構えて、責《せめ》を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百《いお》は危《あやぶ》みつつこの議を納《い》れたのである。比良野|貞固《さだかた》は初め昌
前へ 次へ
全223ページ中133ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング