らた》めた。中村勇左衛門即ち今弘前|桶屋町《おけやまち》にいる範一《はんいち》さんの妻で、その子の範《すすむ》さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
 成善はこの年十月|朔《ついたち》に海保漁村と小島成斎との門に入《い》った。海保の塾は下谷《したや》練塀小路《したやねりべいこうじ》にあった。いわゆる伝経廬《でんけいろ》である。下谷は卑※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201−2]《ひしつ》の地なるにもかかわらず、庭には梧桐《ごとう》が栽《う》えてあった。これは漁村がその師|大田錦城《おおたきんじょう》の風《ふう》を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、躋寿館《せいじゅかん》の講師となっていた。また陸奥国《むつのくに》八戸《はちのへ》の城主|南部《なんぶ》遠江守《とうとうみのかみ》信順《のぶゆき》と越前国|鯖江《さばえ》の城主|間部《まなべ》下総守|詮勝《あきかつ》とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子|竹逕《ちくけい》が代講をしていたのである。
 小島成斎は藩主阿部|正寧《まさやす》の世には、辰《たつ》の口《くち》の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした賢之助《けんのすけ》正教《まさのり》の世になってから、昌平橋|内《うち》の上屋敷にいた。今の神田|淡路町《あわじちょう》である。手習に来る児童の数は頗《すこぶ》る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年|生《うまれ》で十二歳になる伊沢鉄三郎《いさわてつさぶろう》がいた。柏軒の子で、後に徳安《とくあん》と称し、維新後に磐《いわお》と更《あらた》めた人である。成斎は手に鞭《むち》を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の尖《さき》で指《ゆびさ》し示した。そして児童を倦《う》ましめざらんがためであろうか、諧謔《かいぎゃく》を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が奥詰《おくづめ》医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、豊碑《ほうひ》を築き起して世に傲《おご》るが如き状《じょう》をなすは、主家に
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