て、寄場《よせば》はこれがために雑沓《ざっとう》した。照葉とは天爾波《てには》俄《にわか》の訛略《かりゃく》だというのである。
 伊原さんはこの照葉の語原は覚束《おぼつか》ないといっているが、いかにも輒《すなわ》ち信じがたいようである。
 能楽は抽斎の楽《たのし》み看《み》る所で、少《わか》い頃謡曲を学んだこともある。偶《たまたま》弘前の人村井|宗興《そうこう》と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
 俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
 抽斎は鑑賞家として古画を翫《もてあそ》んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁《たにぶんちょう》の教《おしえ》を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画《えが》いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家《しゅうちんか》として蒐集《しゅうしゅう》した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識《し》ったことは、前にいったとおりである。
 抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少《まれ》であった。これは自ら※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]《いまし》めて耽《ふけ》らざらんことを欲したのである。
 抽斎は大名の行列を観《み》ることを喜んだ。そして家々の鹵簿《ろぼ》を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯《たのし》んだのも、これがためである。この嗜好《しこう》は喜多|静廬《せいろ》の祭礼を看ることを喜んだのと頗《すこぶ》る相類《あいるい》している。
 角兵衛獅子《かくべえじし》が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
 庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀《はさみ》を把《と》って植木の苅込《かりこみ》をした。木の中では御柳《ぎょりゅう》を好んだ。即ち『爾雅《じが》』に載せてある※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]《てい》である。雨師《うし》、三春柳《さんしゅんりゅう》などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる室《しつ》に近い地に栽《う》え替えさせた。おる所を観柳書屋《かんりゅうしょおく》と名づけた柳字も、楊柳《ようりゅう》ではない、※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]柳である。これに反して柳原《りゅうげん》書屋の
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