てこれを飲ませた。五百はこれを旨《うま》がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑《すす》め、また比良野|貞固《さだかた》に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
 飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『素問《そもん》』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『説文《せつもん》』である。晩年には毎月《まいげつ》説文会を催して、小島成斎、森|枳園《きえん》、平井東堂、海保|竹逕《ちくけい》、喜多村栲窓《きたむらこうそう》、栗本|鋤雲《じょうん》等を集《つど》えた。竹逕は名を元起《げんき》、通称を弁之助《べんのすけ》といった。本《もと》稲村《いなむら》氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の生《うまれ》で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を直寛《ちょくかん》、字《あざな》を士栗《しりつ》という。通称は安斎《あんさい》、後《のち》父の称|安政《あんせい》を襲《つ》いだ。香城《こうじょう》はその晩年の号である。経《けい》を安積艮斎《あさかごんさい》に受け、医を躋寿館《せいじゅかん》に学び、父|槐園《かいえん》の後《のち》を承《う》けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三《てつぞう》、栗本氏に養わるるに及んで、瀬兵衛《せへえ》と改め、また瑞見《ずいけん》といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
 説文会には島田|篁村《こうそん》も時々列席した。篁村は武蔵国|大崎《おおさき》の名主《なぬし》島田|重規《ちょうき》の子である。名は重礼《ちょうれい》、字は敬甫《けいほ》、通称は源六郎《げんろくろう》といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交《こう》にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
 抽斎の好んで読んだ小説は、赤本《あかほん》、菎蒻本《こんにゃくぼん》、黄表紙《きびょうし》の類《るい》であった。想《おも》うにその自ら作った『呂后千夫《りょこうせんふ》』は黄表紙の体《たい》に倣《なら》ったものであっただろう。
 抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の
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