る。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の同胞《はらから》の間に脩《おさむ》という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は頗《すこぶ》る生計の方向を殊《こと》にしている。そこで早く怙《こ》を失った終吉さんは伯母《おば》をたよって往来《ゆきき》をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女《むすめ》冬子《ふゆこ》さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在《ありか》を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。是《ここ》においてわたくしは、外崎さんの捜索を煩《わずらわ》すまでもなく、保さんの今の牛込《うしごめ》船河原町《ふながわらちょう》の住所を知って、直《すぐ》にそれを外崎さんに告げた。
その八
わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易《たやす》く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君|墓碣銘《ぼけつめい》」という篆額《てんがく》も墓誌銘も、皆|小島成斎《こじませいさい》の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除《さんじょ》したものだそうである。『喫茗雑話《きつめいざつわ》』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に五弓雪窓《ごきゅうせっそう》がこの文を『事実文編《じじつぶんぺん》』巻《けん》の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を閲《けみ》するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪《と》うと訓《よ》ませてあるのに慊《あきたら》なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》の命じた名だということが、抽斎と森枳園《もりきえん》との作った序に見えており、訪古の字面《じめん》は、『宋史《そうし》』鄭樵《ていしょう》の伝に、名山《めいざん》大川《たいせん》に游《あそ》び、奇を捜し古《いにしえ》を訪い、書
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