名を挙げて問うて見た。中には博文館《はくぶんかん》の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡《そうせき》がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
此《ここ》に至ってわたくしは抽斎の子が二人《ふたり》と、孫が一人《ひとり》と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を詳《つまびらか》にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽|信政《のぶまさ》に召し抱えられた。抽斎はその数世《すせい》の孫《そん》で、文化《ぶんか》中に生れ、安政《あんせい》中に歿《ぼっ》した。その徳川|家慶《いえよし》に謁したのは嘉永《かえい》中の事である。墓誌銘は友人|海保漁村《かいほぎょそん》が撰《えら》んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って手近《てぢか》にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの所在《ありか》を捜すことと、この抜萃《ばっすい》を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに『前田文正《まえだぶんせい》筆記』、『津軽日記』、『喫茗雑話《きつめいざつわ》』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその中《うち》に「道純|諱《いみな》全善、号抽斎、道純|其《その》字《あざな》也《なり》」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓《よ》ませたのだそうである。
これと殆《ほとん》ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは風邪《ふうじゃ》が急に癒《い》えぬので、わたくしと会見するに先《さきだ》って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした叔父《おじ》の住所等を報じてくれた。墓は谷中《やなか》斎場の向いの横町を西へ入《い》って、北側の感応寺《かんのうじ》にある。そこへ往《い》けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけであ
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