を蔵する家に遇《あ》えば、必ず借留《しゃくりゅう》し、読み尽して乃《すなわ》ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女|平野氏《ひらのうじ》出《しゅつ》」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野|氏《うじ》の生んだ女《むすめ》というのは、比良野文蔵《ひらのぶんぞう》の女《むすめ》威能《いの》が、抽斎の二人《ににん》目の妻《さい》になって生んだ純《いと》である。勝久さんや終吉さんの亡父|脩《おさむ》はこの文に載せてないのである。
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、庚申《こうしん》元文《げんぶん》五年閏七月十七日」と、向って右の傍《かたわら》に彫《え》ってある。抽斎の高祖父|輔之《ほし》である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父|允成《ただしげ》である。その間と左とに高祖父と父との配偶、夭折《ようせつ》した允成の女《むすめ》二人《ふたり》の法諡《ほうし》が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、己丑《きちゅう》明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌《こうじゅつ》寛政二年四月十三日」とあるのは、允成《ただしげ》の初《はじめ》の妻田中|氏《うじ》、「寿松院妙遠日量信女、文政十二|己丑《きちゅう》六月十四日」とあるのは、抽斎の生母|岩田氏《いわたうじ》縫《ぬい》、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年|甲寅《こういん》三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華《どんげ》水子《すいし》、文化八年|辛未《しんび》閏《じゅん》二月十四日」とあるのも、並《ならび》に皆允成の女《むすめ》である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年|壬戌《じんじゅつ》七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年|甲寅《こういん》三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父|為隣《いりん》で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先《さきだ》って死んだ長男|恒善《つねよし》である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明《てんめい》四|甲辰《こうしん》二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父|本皓《ほんこう》である。「智照院妙道日
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