十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月|初《はじめ》の事で、抽斎は翌八月の末《すえ》に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、蕃書調所《ばんしょしらべしょ》を九段《くだん》坂下《さかした》元小姓組|番頭格《ばんがしらかく》竹本|主水正《もんどのしょう》正懋《せいぼう》の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼《かね》たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平|薩摩守《さつまのかみ》斉彬《なりあきら》家来|戸塚静海《とつかせいかい》、松平肥前守|斉正《なりまさ》家来|伊東玄朴《いとうげんぼく》、松平三河守|慶倫《よしとも》家来|遠田澄庵《とおだちょうあん》、松平駿河守|勝道《かつつね》家来青木|春岱《しゅんたい》に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿《けんよ》で、抽斎の歿した八月二十八日に先《さきだ》つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御《おん》医師即ち官医中有志のものは「阿蘭《オランダ》医術兼学|致《いたし》候とも不苦《くるしからず》候」と令した。翌日また有馬|左兵衛佐《さひょうえのすけ》道純《みちずみ》家来|竹内玄同《たけうちげんどう》、徳川|賢吉《けんきち》家来伊東|貫斎《かんさい》が奥医師を命ぜられた。この二人《ににん》もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の聘《へい》を受けることを肯《がえん》じたら、これらの蘭法医と肩を比《くら》べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎《もたら》し来《きた》った蘭法医との間に、厭《いと》うべき葛藤《かっとう》を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた彼《か》の多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の手に出《い》でたという無名氏の『漢蘭酒話』、平野革谿《ひらのかくけい》の『一夕医話』等と趣を殊《こと》にした、真面目《しんめんぼく》な漢蘭医法比較研究の端緒が此《ここ》に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今|遺《のこ》れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとし
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