じて席を遁《のが》れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首《ひしゅ》一口《いっこう》だけは身を放さずに持っていたので、湯殿《ゆどの》に脱ぎ棄てた衣類の傍《そば》から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏《まと》う遑《いとま》はなかったのである。
 翌朝《よくちょう》五百は金を貴人の許《もと》に持って往った。手島の言《こと》によれば、これは献金としては受けられぬ、唯|借上《かりあげ》になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を訪《と》うて、お手元《てもと》不如意《ふにょい》のために、今年《こんねん》は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は些《すこし》ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
 この一条は保さんもこれを語ることを躊躇《ちゅうちょ》し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心《まごころ》をも、五百の勇気をも、かくまで明《あきらか》に見ることの出来る事実を湮滅《いんめつ》せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方《おんかた》である。あからさまにその人を斥《さ》さずに、ほぼその事を記《しる》すのは、あるいは妨《さまたげ》がなかろうか。わたくしはこう思惟《しゆい》して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
 抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋|嫌《ぎらい》で、攘夷に耳を傾《かたぶ》けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎《あさかごんさい》の書を読んで悟る所があった。そして窃《ひそか》に漢訳の博物窮理の書を閲《けみ》し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
 抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏《か》ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕《いっせき》医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢《あえ》て言《げん》をその間に挟《さしはさ》まなかったが、心中これがために憂え悶《もだ》えたことは、想像するに難からぬのである。

   その六
前へ 次へ
全223ページ中119ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング