ととおり》わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下《そっか》は気が利《き》かないのだ。」
 こういって置いて、貞固は殆《ほとん》ど同じような文句を巻紙《まきがみ》に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好《い》いかな。」
 東堂は毫《ごう》も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を和《やわら》げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に遣《や》るが好い。」
 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。想《おも》うに東堂は外《ほか》柔にして内《うち》険、貞固は外《ほか》猛にして内《うち》寛であったと見える。
 わたくしは前に貞固が要職の体面《たいめん》をいたわるがために窮乏して、古褌《ふるふんどし》を着けて年を迎えたことを記《しる》した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに中井敬所《なかいけいしょ》が大槻如電《おおつきにょでん》さんに語ったという一の事実があって、これが証に充《み》つるに足るのである。
 この事は前《さき》の日わたくしが池田|京水《けいすい》の墓と年齢とを文彦さんに問いに遣《や》った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故《なにゆえ》に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質《しち》が流れて、それを買ったのが、池田京水の子|瑞長《ずいちょう》であったからである。

   その四十二

 東堂が質に入れたのは、銅仏|一躯《いっく》と六方印《ろくほういん》一顆《いっか》とであった。銅仏は印度《インド》で鋳造した薬師如来《やくしにょらい》で、戴曼公《たいまんこう》の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印《ゆういん》である。
 質流《しちながれ》になった時、この仏像を池田瑞長が買った。然《しか》るに東堂は後《のち》金が出来たので、瑞長に交渉して、価《あたい》を倍して購《あがな》い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜
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