の店で亡くなった。その跡を襲《つ》いだのは松太郎|光寿《こうじゅ》で、それが三右衛門《さんえもん》の称をも継承した。迷庵の弟|光忠《こうちゅう》は別に外神田《そとかんだ》に店を出した。これより後《のち》内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世《よよ》三右衛門を称し、此《これ》は世《よよ》市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子|光徳《こうとく》の代になっていた。光寿は迷庵の歿後|僅《わずか》に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字《おさなな》を徳治郎《とくじろう》といったが、この時|更《あらた》めて三右衛門を名告《なの》った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪《てつ》光長《こうちょう》の代であった。
ほどなく光徳の店の手代《てだい》が来た。五百《いお》は箪笥《たんす》長持《ながもち》から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借《か》ることが出来た。
三百両は建築の費《ついえ》を弁ずるには余《あまり》ある金であった。しかし目見《めみえ》に伴う飲※[#「酉+燕」、第3水準1−92−91]贈遺《いんえんぞうい》一切の費は莫大《ばくだい》であったので、五百は終《つい》に豊芥子《ほうかいし》に託して、主《おも》なる首飾《しゅしょく》類を売ってこれに充《あ》てた。その状|当《まさ》に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟《さしはさ》むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽斎の目見をした年の閏《うるう》四月十五日に、長男|恒善《つねよし》は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女|癸巳《きし》が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻《さい》五百《いお》三十四歳、長男恒善二十四歳、次男|優善《やすよし》十五歳、四女|陸《くが》三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女|純《いと》は馬場氏に嫁し、三女|棠《とう》は山内氏を襲《つ》ぎ、次女よし、三男八三郎、四男|幻香《げんこう》は亡くなっていたのである。
嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は凡《すべ》て旧に依《よ》るのである。八月|晦《かい》に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。こ
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