森養竹《もりようちく》である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の跋《ばつ》に見えている堀川|済《せい》である。舟庵の主《しゅ》黒田直静は上総国|久留利《くるり》の城主で、上屋敷は下谷広小路《したやひろこうじ》にあった。
 任命は若年寄《わかどしより》大岡|主膳正《しゅぜんのかみ》忠固《ただかた》の差図を以て、館主多紀|安良《あんりょう》が申し渡し、世話役小島|春庵《しゅんあん》、世話役手伝勝本|理庵《りあん》、熊谷《くまがい》弁庵《べんあん》が列座した。安良は即ち暁湖《ぎょうこ》である。
 何故《なにゆえ》に枳園が※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ表向《おもてむき》になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
 この年八月二十九日に、真志屋《ましや》五郎作《ごろさく》が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世|劇神仙《げきしんせん》になったわけである。
 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城《とじょう》した。躑躅《つつじ》の間《ま》において、老中《ろうじゅう》牧野備前守|忠雅《ただまさ》の口達《こうたつ》があった。年来学業出精に付《つき》、ついでの節|目見《めみえ》仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭《てぜま》なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出《い》でたものである。

   その三十八

 抽斎の将軍|家慶《いえよし》に謁見したのは、世の異数となす所であった。素《もと》より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部《たけべ》内匠頭《たくみのかみ》政醇《まさあつ》家来|辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《つじもとしゅうあん》の如く目見《めみえ》の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先《さきだ》って伊沢|榛軒《しんけん》が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中《ろうじゅう》になっているので、薦達《せんたつ》の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見
前へ 次へ
全223ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング