論争したそうである。
 枳園が此《かく》の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主《こしゅう》の許《もと》に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾|好《よ》くは幕府の直参《じきさん》にでもなろうと思って、機会を窺《うかが》っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
 卒《にわか》に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易《やす》く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に馳《は》せていた。就中《なかんずく》本草《ほんぞう》に精《くわ》しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻《けいちょう》を忌む心が頗《すこぶ》る牢《かた》かった。多紀一家《たきいっけ》殊に※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を護《ご》して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢|榛軒《しんけん》、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人|服部九十郎《はっとりくじゅうろう》、勘定奉行|小此木伴七《おこのぎはんしち》、大田《おおた》、宇川《うがわ》等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に阻《さまた》げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭の同情に愬《うった》えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動《うごか》そうと決心した。そして終《つい》にこの手段を以て成功した。
 この期間の末《すえ》の一年、嘉永元年に至って枳園は躋寿館《せいじゅかん》の一事業たる『千金方《せんきんほう》』校刻《こうこく》を手伝うべき内命を贏《か》ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。

   その三十七

 阿部家への帰参が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》って、枳園が家族を纏《まと》めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家《かしいえ》のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の器什《きじゅう》を買い集めてこれ
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