、人に栄次郎を吉原へ連れて往《ゆ》かせた。この時司の禿《かぶろ》であった娘が、浜照《はまてる》という名で、来月|突出《つきだし》になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも盛《さかん》な遊《あそび》をしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
この時に当って、まさに覆《くつがえ》らんとする日野屋の世帯《せたい》を支持して行こうというものが、新《あらた》に屋敷奉公を棄《す》てて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲《つ》いでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産を治《ち》することをさえ忘れていたのである。
その三十四
五百《いお》は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を諌《いさ》め励まして、風浪に弄《もてあそ》ばれている日野屋という船の柁《かじ》を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫《おおまご》某《ぼう》を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦《いったん》忠兵衛の意志に依《よ》って五百の名に書き更《か》えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言《しんしょうなごん》と呼ばれたという一面がある。同じ頃|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》の女《むすめ》俊《たか》に少納言の称があったので、五百はこれに対《むか》えてかく呼ばれたのである。
五百の師として事《つか》えた人には、経学に佐藤一斎、筆札《ひっさつ》に生方鼎斎《うぶかたていさい》、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭《まえだなつかげ》があるそうである。十一、二歳の時|夙《はや》く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴《き》くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古《けいこ》の為方《しかた》であっただろう。
師匠の中《うち》で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた
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