うち》に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先《さきだ》って、五百を家に還《かえ》らしめたのである。
五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛|妾《しょう》牧《まき》、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉|安《やす》は四年前に阿部家を辞して、横山町《よこやまちょう》の塗物問屋《ぬりものどいや》長尾宗右衛門《ながおそうえもん》に嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
忠兵衛の子がまだ皆|幼《いとけな》く、栄次郎六歳、安三蔵、五百《いお》二歳の時、麹町《こうじまち》の紙問屋|山一《やまいち》の女で松平|摂津守《せっつのかみ》義建《ぎけん》の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の上《かみ》に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて全家《ぜんか》が頭《こうべ》を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、尋《つ》いで昌平黌《しょうへいこう》に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの二人《ふたり》だけが許多《あまた》の士人の間に介《はさ》まっていた商家の子であった。譬《たと》えていって見れば、今の人が華族でなくて学習院に入《い》っているようなものである。
五百《いお》が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に平《たいらか》ならずして、吉原通《よしわらがよい》をしはじめた。相方《あいかた》は山口巴《やまぐちともえ》の司《つかさ》という女であった。五百が屋敷から下《さが》る二年前に、栄次郎は深入《ふかいり》をして、とうとう司の身受《みうけ》をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし救解《きゅうかい》のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷《さたやみ》になった。
然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
栄次郎は妹の力に憑《よ》って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜《くぐ》らずにいた。その隙《ひま》に司を田舎大尽《いなかだいじん》が受け出した。栄次郎は鬱症《うつしょう》になった。忠兵衛は心弱くも
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