好《い》い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
 五百は呼名は挿頭《かざし》と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、翳《かざし》の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の嗜《たしなみ》のあることを人に知られて、男之助《おとこのすけ》という綽名《あだな》が附いた。
 藤堂家でも他家と同じように、中臈は三室《さんしつ》位に分たれた部屋に住んで、女|二人《ににん》を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に往《ゆ》くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした五百《いお》なぞには、給料の多寡は初《はじめ》より問う所でなかった。
 修行は金を使ってする業《わざ》で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、傍輩《ほうばい》に饗応《きょうおう》し、衣服調度を調《ととの》え、下女《げじょ》を使って暮すには、父忠兵衛は年《とし》に四百両を費したそうである。給料は三十両|貰《もら》っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
 五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈|頭《がしら》に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。

   その三十三

 五百《いお》は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇《いとま》を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏|定《さだ》を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏|威能《いの》、岡西氏|徳《とく》を相踵《あいつ》いで妻としていたのである。
 五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷《や》めた頃は、忠兵衛はまだ女《むすめ》を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。暇《いとま》を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂|高猷《たかゆき》夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供の中《
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