くし》」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑《おか》しい事には、外題《げだい》に慶安としてあるものは、後に寛文《かんぶん》中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行《いんこう》したものである。それから明暦《めいれき》中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友《ばんのぶとも》の自筆の序がある。伴は文政《ぶんせい》三年にこの本を獲《え》て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑《えどかがみ》」になると、世間にやや多い。
 これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。然《しか》るにわたくしに先んじて、夙《はや》く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録《えどかんずもくろく》』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目《ぐうもく》した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍《かたわら》に四と註《ちゅう》している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々《しょしょ》考証を記《しる》すに当って抽斎|云《いわく》としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江|氏《うじ》蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
 わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを確《たしか》めようと思い立った。
 わたくしは友人、就中《なかんずく》東北地方から出た友人に逢《あ》うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣《や》って問い合せた。
 或る日|長井金風《ながいきんぷう》さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
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