そのうち弘前に勤めている同僚の書状が数通《すつう》届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は元禄《げんろく》の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし定府《じょうふ》であったので、弘前には深く交《まじわ》った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今|東京《とうけい》にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽《いいだたつみ》という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、外崎覚《とのさきかく》という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精《くわ》しい佐藤弥六《さとうやろく》さんという老人で、当時|大正《たいしょう》四年に七十四歳になるといってあった。
 わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、唐突《とうとつ》ではあったが、飯田さんの西江戸川町《にしえどがわちょう》の邸《やしき》へ往《い》った。飯田さんは素《も》と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは誰《だれ》の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは快《こころよ》く引見《いんけん》して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江|道純《どうじゅん》を識《し》っていた。それは飯田さんの親戚《しんせき》に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに往《ゆ》くことになっていたからである。道純は本所《ほんじょ》御台所町《おだいどころちょう》に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。

   その五

 わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
 切角《せっかく》道純を識《し》っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞《いとまごい》をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお待《まち》下さい、念のために妻《さい》にきいて見ますから」といった。
 細君《さいくん》が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所|松井町《まついちょ
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