が往《ゆ》き、五百が来《きた》る間に変って、幕府の直参《じきさん》になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒《にわか》にその中《うち》に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好《よ》しその適材であったのは、抽斎の幸《さいわい》である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚《ほうかく》といった。神田紺屋町に鉄物問屋《かなものどいや》を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁《いげた》の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人|墨客《ぼっかく》に交《まじわ》り、財を捐《す》ててこれが保護者となった。
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女|安《やす》、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾《きんご》である。
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女《むすめ》にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学《けいがく》などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此《かく》の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内|但馬守《たじまのかみ》盛豊《もりとよ》の子、対馬守《つしまのかみ》一豊《かずとよ》の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏《みつばがしわ》の紋を附け、名のりに豊《とよ》の字を用いることになっている。今わたくしの手近《てぢか》にある系図には、一豊の弟は織田信長《おだのぶなが》に仕えた修理亮《しゅりのすけ》康豊《やすとよ》と、武田信玄《たけだしんげん》に仕えた法眼《ほうげん》日泰《にったい》との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔《すえ》であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽《にわか》に定《さだ》めることが出来ない。
その三十一
五百《いお》は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。
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