てから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好《よ》かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭《へんきょう》な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
 最初の妻|定《さだ》は貧家の女《むすめ》の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父|允成《ただしげ》が或時、己《おれ》の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭《いや》とは思わなかった。二人《ににん》目の妻|威能《いの》は怜悧《れいり》で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。

   その三十

 克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱《しか》り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
 さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便《たより》があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆《ほとん》ど日記のように悉《くわし》く書いたのである。抽斎は初め数行《すうこう》を読んで、直《ただ》ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
 允成は抽斎の徳に親《したし》まぬのを見て、前途のために危《あやぶ》んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習《てならい》をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本《もと》づいて文案を作って、徳に筆を把《と》らせ、家内《かない》の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
 抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
 二年近い旅から帰って、抽斎は勉《つと》めて徳に親んで、父の心を安《やすん》ぜようとした。それから二年立って優善《やすよし》が生れた。
 尋《つ》いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年|淹留《えんりゅう》した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好《よし》が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
 そして徳の亡くなった跡へ山内氏|五百《いお》が来ることになった。抽斎の身分は徳
前へ 次へ
全223ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング