たのは、徳の兄岡西|玄亭《げんてい》が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に文字《もんじ》の交《まじわり》を訂していたからである。
天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随《したが》って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還《かえ》ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月|朔《さく》に二人《ににん》扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森|枳園《きえん》が佐々木氏|勝《かつ》を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に怙《こ》を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。
その二十七
天保六年|閏《うるう》七月四日に、抽斎は師|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男|優善《やすよし》が生れた。後に名を優《ゆたか》と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の後《のち》は懐之《かいし》、字《あざな》は少卿《しょうけい》、通称は三平《さんぺい》が嗣《つ》いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男|恒善《つねよし》、長女|純《いと》、次男優善の五人になった。
同じ年に森|枳園《きえん》の家でも嫡子|養真《ようしん》が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰《きんじゅづめ》に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田|京水《けいすい》が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
京水には二人の男子《なんし》があった。長を瑞長《ずいちょう》といって、これが家業を襲《つ》いだ。次を全安《ぜんあん》といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の女《むすめ》かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷|弓町《ゆみちょう》に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主|信順《のぶゆき》に謁した。年|甫《はじめ》て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
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