そして北へ北へと漕いで行った。

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「お母あさまお母あさま」と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。「もう呼ぶな」と宮崎が叱った。「水の底の鱗介《いろくず》には聞えても、あの女子《おなご》には聞えぬ。女子どもは佐渡へ渡って粟《あわ》の鳥でも逐《お》わせられることじゃろう」
 姉の安寿と弟の厨子王とは抱き合って泣いている。故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今はからずも引き分けられて、二人はどうしていいかわからない。ただ悲しさばかりが胸にあふれて、この別れが自分たちの身の上をどれだけ変らせるか、そのほどさえ弁《わきま》えられぬのである。
 午《ひる》になって宮崎は餅《もち》を出して食った。そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見合わせて泣いた。夜は宮崎がかぶせた苫《とま》の下で、泣きながら寝入った。
 こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能登《のと》、越前《えちぜん》、若狭《わかさ》の津々浦々を売り歩いたのである。
 しかし二人がおさないのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうと言うものがない。たまに買い手があっても、値段の相談が調《ととの》わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。
 宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由良《ゆら》の港に来た。ここには石浦というところに大きい邸《やしき》を構えて、田畑に米麦を植えさせ、山では猟《かり》をさせ、海では漁《すなどり》をさせ、蚕飼《こがい》をさせ、機織《はたおり》をさせ、金物、陶物《すえもの》、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒大夫《さんしょうだゆう》という分限者《ぶげんしゃ》がいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、よそに買い手のない貨《しろもの》があると、山椒大夫がところへ持って来ることになっていた。
 港に出張っていた大夫の奴頭《やっこがしら》は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓鬼《がき》どもを片づけて身が軽うなった」と言って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐《ふところ》に入れた。そして波止場の酒店にはいった。

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 一抱えに余る柱を立て並べて造った大廈《おおいえ》の奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。その向うに茵《しとね》を三枚|畳《かさ》ねて敷いて、山椒大夫は几《おしまずき》にもたれている。左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬《こまいぬ》のように列《なら》んでいる。もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳のとき、逃亡を企てて捕えられた奴《やっこ》に、父が手ずから烙印《やきいん》をするのをじっと見ていて、一言も物を言わずに、ふいと家を出て行くえが知れなくなった。今から十九年前のことである。
 奴頭《やっこがしら》が安寿、厨子王を連れて前へ出た。そして二人の子供に辞儀をせいと言った。
 二人の子供は奴頭の詞《ことば》が耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広く※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》が張って、髪も鬚《ひげ》も銀色に光っている。子供らは恐ろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。
 大夫は言った。「買うて来た子供はそれか。いつも買う奴《やっこ》と違うて、何に使うてよいかわからぬ、珍らしい子供じゃというから、わざわざ連れて来させてみれば、色の蒼《あお》ざめた、か細い童《わらわ》どもじゃ。何に使うてよいかは、わしにもわからぬ」
 そばから三郎が口を出した。末の弟ではあるが、もう三十になっている。「いやお父っさん。さっきから見ていれば、辞儀をせいと言われても辞儀もせぬ。ほかの奴のように名のりもせぬ。弱々しゅう見えてもしぶとい者どもじゃ。奉公初めは男が柴苅《しばか》り、女が汐汲《しおく》みときまっている。その通りにさせなされい」
「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭が言った。
 大夫は嘲笑《あざわら》った。「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣《しのぶぐさ》、弟は我が名を萱草《わすれぐさ》じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三|荷《が》の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」
 三郎が言った。「過分のいたわりようじゃ。こりゃ、奴頭。早く連れて下がって道具を渡してやれ」
 奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶《おけ》と杓《ひさご》、厨子王には籠《かご》と鎌《かま》を渡した。どちらにも午餉《ひるげ
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