[#「木+(たけかんむり/高)」、第3水準1−86−26]《さお》で岸を一押し押すと、舟は揺《ゆら》めきつつ浮び出た。
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山岡大夫はしばらく岸に沿うて南へ、越中境《えっちゅうざかい》の方角へ漕《こ》いで行く。靄《もや》は見る見る消えて、波が日にかがやく。
人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松《みる》や荒布《あらめ》を打ち上げているところがあった。そこに舟が二|艘《そう》止まっている。船頭が大夫を見て呼びかけた。
「どうじゃ。あるか」
大夫は右の手を挙げて、大拇《おやゆび》を折って見せた。そして自分もそこへ舟を舫《もや》った。大拇だけ折ったのは、四人あるという相図《あいず》である。
前からいた船頭の一人は宮崎の三郎といって、越中宮崎のものである。左の手の拳《こぶし》を開いて見せた。右の手が貨《しろもの》の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文につけたのである。
「気張るぞ」と今一人の船頭が言って、左の臂《ひじ》をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、ついで示指《ひとさしゆび》を竪《た》てて見せた。この男は佐渡の二郎で六貫文につけたのである。
「横着者奴《おうちゃくものめ》」と宮崎が叫んで立ちかかれば、「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身構えをする。二艘の舟がかしいで、舷《ふなばた》が水を笞《むちう》った。
大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見較べた。「あわてるな。どっちも空手《からて》では還《かえ》さぬ。お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客を顧みた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重過ぎては走りが悪い」
二人の子供は宮崎が舟へ、母親と姥竹とは佐渡が舟へ、大夫が手をとって乗り移らせた。移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡も幾緡《いくさし》かの銭を握らせたのである。
「あの、主人《あるじ》にお預けなされた嚢《ふくろ》は」と、姥竹が主《しゅう》の袖《そで》を引くとき、山岡大夫は空舟をつと押し出した。
「わしはこれでお暇《いとま》をする。たしかな手からたしかな手へ渡すまでがわしの役じゃ。ご機嫌ようお越しなされ」
※[#「舟+虜」、第4水準2−85−82]《ろ》の音が忙《せわ》しく響いて、山岡大夫の舟は見る見る遠ざかって行く。
母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓《ぐぜい》の舟、着くは同じ彼岸《かのきし》と、蓮華峰寺《れんげぶじ》の和尚《おしょう》が言うたげな」
二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。
母親は物狂おしげに舷《ふなばた》に手をかけて伸び上がった。「もうしかたがない。これが別れだよ。安寿《あんじゅ》は守本尊の地蔵様を大切におし。厨子王《ずしおう》はお父うさまの下さった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
子供はただ「お母あさま、お母あさま」と呼ぶばかりである。
舟と舟とは次第に遠ざかる。後ろには餌《え》を待つ雛《ひな》のように、二人の子供があいた口が見えていて、もう声は聞えない。
姥竹は佐渡の二郎に「もし船頭さん、もしもし」と声をかけていたが、佐渡は構わぬので、とうとう赤松の幹のような脚にすがった。「船頭さん。これはどうしたことでございます。あのお嬢さま、若さまに別れて、生きてどこへ往かれましょう。奥さまも同じことでございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の往く方へ漕いで行って下さいまし。後生でございます」
「うるさい」と佐渡は後ろざまに蹴った。姥竹は舟※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]《ふなとこ》に倒れた。髪は乱れて舷にかかった。
姥竹は身を起した。「ええ。これまでじゃ。奥さま、ご免下さいまし」こう言ってまっさかさまに海に飛び込んだ。
「こら」と言って船頭は臂《ひじ》を差し伸ばしたが、まにあわなかった。
母親は袿《うちぎ》を脱いで佐渡が前へ出した。「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」こう言って舷に手をかけた。
「たわけが」と、佐渡は髪をつかんで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨《しろもの》じゃ」
佐渡の二郎は牽※[#「糸+拔のつくり」、第3水準1−89−94]《つなで》を引き出して、母親をくるくる巻きにして転がした。
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