も忘れますまい」
 山岡大夫はうなずいた。「さてさてよう物のわかるご婦人じゃ。そんならすぐに案内をして進ぜましょう」こう言って立ちそうにした。
 母親は気の毒そうに言った。「どうぞ少しお待ち下さいませ。わたくしども三人がお世話になるさえ心苦しゅうございますのに、こんなことを申すのはいかがと存じますが、実は今一人連れがございます」
 山岡大夫は耳をそばだてた。「連れがおありなさる。それは男か女子《おなご》か」
「子供たちの世話をさせに連れて出た女中でございます。湯をもらうと申して、街道を三四町あとへ引き返してまいりました。もうほどなく帰ってまいりましょう」
「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」山岡大夫の落ち着いた、底の知れぬような顔に、なぜか喜びの影が見えた。

     ――――――――――――

 ここは直江の浦である。日はまだ米山《よねやま》の背後《うしろ》に隠れていて、紺青《こんじょう》のような海の上には薄い靄《もや》がかかっている。
 一群れの客を舟に載せて纜《ともづな》を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。
 応化橋《おうげのはし》の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中|姥竹《うばたけ》が欠け損じた瓶子《へいし》に湯をもらって帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながらついて行った。大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家《や》に四人を留めて、芋粥《いもがゆ》をすすめた。そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。くたびれた子供らをさきへ寝させて、母は宿の主人《あるじ》に身の上のおおよそを、かすかな燈火《ともしび》のもとで話した。
 自分は岩代《いわしろ》のものである。夫が筑紫《つくし》へ往って帰らぬので、二人の子供を連れて尋ねに往く。姥竹は姉娘の生まれたときから守《も》りをしてくれた女中で、身寄りのないものゆえ、遠い、覚束ない旅の伴《とも》をすることになったと話したのである。
 さてここまでは来たが、筑紫の果てへ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと言ってよい。これから陸《おか》を行ったものであろうか。または船路《ふなじ》を行ったものであろうか。主人《あるじ》は船乗りであってみれば、定めて遠国のことを知っているだろう。どうぞ教えてもらいたいと、子供らの母が頼んだ。
 大夫は知れきったことを問われたように、少しもためらわずに船路を行くことを勧めた。陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界《さかい》にさえ、親不知子不知《おやしらずこしらず》の難所がある。削り立てたような巌石の裾《すそ》には荒浪《あらなみ》が打ち寄せる。旅人は横穴にはいって、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺《うみべ》の難所である。また山を越えると、踏まえた石が一つ揺《ゆる》げば、千尋《ちひろ》の谷底に落ちるような、あぶない岨道《そわみち》もある。西国へ往くまでには、どれほどの難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。たしかな船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。自分は西国まで往くことは出来ぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ往く舟に乗り換えさせることが出来る。あすの朝は早速船に載せて出ようと、大夫は事もなげに言った。
 夜が明けかかると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。そのとき子供らの母は小さい嚢《ふくろ》から金を出して、宿賃を払おうとした。大夫は留めて、宿賃はもらわぬ、しかし金の入れてある大切な嚢は預かっておこうと言った。なんでも大切な品は、宿に着けば宿の主人《あるじ》に、舟に乗れば舟の主《ぬし》に預けるものだというのである。
 子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗《あらが》うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
 母親は余儀ないことをするような心持ちで舟に乗った。子供らは凪《な》いだ海の、青い氈《かも》を敷いたような面《おもて》を見て、物珍しさに胸をおどらせて乗った。ただ姥竹が顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今舟に乗るときまで、不安の色が消え失せなかった。
 山岡大夫は纜《ともづな》を解いた。※
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