し録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に遣つた手紙に見えてゐた。
 眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年|未《ひつじの》正月|御扶持渡通帳《おんふちわたしかよひちやう》」に據るに、此後文化五年|戊辰《ぼしん》に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持|被下置《くだしおかる》」と云ふことになつた。これは十代|若《もし》くは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載を闕《か》いてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。

     三十二

 西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の
前へ 次へ
全103ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング