である。「御西山君樣御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味《ぐわんみ》すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遲れて享保十一年六月七日に歿した。眞志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つて、成公|宗堯《むねたか》の世になつてゐた。
 六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作|自義公《ぎこうより》拜領、十五歳|初御目見得《はつおんめみえ》、依願《ねがひによつて》西村家相續|被仰付《おほせつけらる》、眞志屋號拜領、高三百石被下置、俳名春局」と註してある。幼名拜領並に初御目見得から西村家相續に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる宗堯《むねたか》の世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけであ
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