んぜず》、入魂《じゆつこん》に立入仕候段只今に相成重々|奉恐入候《おそれいりたてまつりそろ》、思召次第如何樣共御咎仰付可被下置段申上《おぼしめししだいいかやうともおんとがめおほせつけくだしおかるべきだんまうしあげ》ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩《くら》ませし程のやつ、汝等《なむぢら》が欺かれたるは尤《もつと》ものことなり、少《すこし》も咎申付《とがめまうしつく》る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所《ぼだいしよ》へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候《おほせこれありそろ》に付、則《すなはち》菩提所傳通院寺中昌林院へ埋《うづ》め、今猶墳墓あれども、一華を手向《たむく》る者もなし、僅に番町邊の人一人正忌日にのみ參詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」
 説いて此《こゝ》に至れば、獨《ひとり》所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼《かの》藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦《よめ》島との時代に當つてゐるのがわかる。
 清休は元祿十二年|閏《うるふ》九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父
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