。眞面目の學者である。只《たゞ》此僧侶學者は往々人に異なる行を敢《あへ》てしたのである。
 壽阿彌は刀自の穉《をさな》かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に闕《か》かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日《きにち》である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經《どきやう》を請ひ、それが畢《をは》つてから饗應して還《かへ》す例になつてゐた。饗饌《きやうぜん》には必ず蕃椒《たうがらし》を皿《さら》に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを剩《あま》さずに食べた。「あの方は年に馬に一|駄《だ》の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣《ほふえ》であつたと刀自は云ふ。
 壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向《ゑかう》に往き、素封家《そほうか》へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を請《しやう》ずる家が殊《こと》に多かつた。
 壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此|講筵《かう
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