夫|義厚《よしひろ》の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの間《かん》ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。
五
天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通《すぐどほ》りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸《じやうご》は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜《たし》んだことがわかり、又※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜《せいい》、一に世夷《せいい》に作る、字《あざな》は希之《きし》、別に天均又|皆梅《かいばい》と號した。亦《また》駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》して知つた。
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