まさなり》に聘せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏の臣となり、嘉永三年伊豆七島全圖を著《あらは》して幕府の譴責《けんせき》を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年|謫《たく》せられて越後國高田に往き、戊辰《ぼしん》の年には尚《なほ》高田|幸橋町《みゆきばしちやう》に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島|龜戸《かめゐど》神社の祠官《しくわん》となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談續編に「先生後獲罪《せんせいはのちにつみをえて》、謫在越之高田《ながされてえつのたかだにあり》、(中略)無幾王室中興《いくばくもなくわうしつちゆうこうす》、先生嘗得列官于朝《せんせいはかつてくわんをてうにれつすることをう》」と書してある。琴臺の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。
[#地から1字上げ](大正五年五・六月)
底本:「筑摩全集類聚森鴎外全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年11月5日初版第1刷発行
1972(昭和47)年6月20日初版第2刷発行
※「道聽途説」と「道聽塗説」の混在は底本通りにしました。またルビの混在(p2
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