能書であつた。字に媚※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《びぶ》の態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。

     三十一

 連歌師としての壽阿彌は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは眞志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題號の寫本一册と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳營之御會と題した連歌の卷數册とを見た。無題號の寫本は表紙に「如是縁庵《によぜえんあん》」と書し、「壽阿彌陀佛印」の朱記がある。卷尾には「享保八年|癸卯《きばう》七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪寫之」と云ふ奧書があつて、其次の餘白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の卷々には左大臣として徳川|家慶《いへよし》の句が入つてゐる。そして嘉永元年前のものには必ず壽阿彌が名を列して居る。
 先師次第にはかう記してある。「宗祇《そうぎ》、宗長、宗牧、里村元祖|昌休《しやうきう》、紹巴《せうは》、里村二代|昌叱《しやうしつ》、三代|昌琢《しやうたく》、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代|昌迪《しやうてき》、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼《はふげん》紹巴、同《おなじく》玄仍《げんじよう》、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹《せうゐん》、玄立、玄立、法橋《ほつけう》玄川寛政六年六月二十日法橋」である。
 二種の略系は里村兩家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔《すゑ》は世《よゝ》京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には兩家共京住ひになつたらしい。
 わたくしは此略系を以て壽阿彌の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは壽阿彌の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は壽阿彌の同僚で、連歌の卷々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯《さかのぼ》つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。
 壽阿彌の連歌師としての同僚中、坂昌功は壽阿彌と親しかつたらしい。眞志屋の遺物中に、「壽阿彌の手向《たむけ》に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短册《たんざく》がある。坂昌功は初め淺草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に遣つた手紙に見えてゐた。
 眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年|未《ひつじの》正月|御扶持渡通帳《おんふちわたしかよひちやう》」に據るに、此後文化五年|戊辰《ぼしん》に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持|被下置《くだしおかる》」と云ふことになつた。これは十代|若《もし》くは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載を闕《か》いてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。

     三十二

 西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、世《よゝ》水戸家の用達であつたことは、夙《はや》く海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
 わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より麪粉類《めんふんるゐ》御用相勤」云々《しか/″\》の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻《たゞ》にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
 金澤氏六代の増田東里には、弊帚集《へいさうしふ》と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒《にはか》に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒《くりやませんぽう》に弊帚集六卷があつて火災に罹《かゝ》り
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