と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに氣が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。
 拜し畢つて歸る時、わたくしは曾て面《おもて》を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩《さき》の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。
「けふは金澤の墓へまゐりました。先日金澤の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家《だんか》だと承はつてゐます。昔の御商賣は何でございましたでせう。」
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金澤丹後が東の大關になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野榮泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆|幕外《まくそと》です。なんでも金澤は將軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の萬和の女《むすめ》です。里親の萬屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入《はひ》つてゐました。」
 わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧《れいり》らしい言語の明晰《めいせき》な女子である。
 増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に歸つてから、手近い書に就いて谷中の寺を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]したが、長運寺の名は容易《たやす》く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯《あやま》り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覽で谷中長運寺を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡邊治右衞門別莊の邊から一乘寺の辻へ拔ける狹い町の中程にある。
 蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再會したら重ねて長運寺の事をも問ひ質《たゞ》して見よう。

     三十

 諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんの齎《もたら》し來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、明《あきら》め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を閲《けみ》し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち截《き》つた維新の期に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略《ほゞ》此《こゝ》に盡きた。
 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。
 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。袱紗《ふくさ》に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太《はなは》だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で綴《と》ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十《やそ》のちまたの門《かど》の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「八十《やそ》になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。
 此二句は書估《しよこ》活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ枕團子《まくらだんご》をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。
 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月|晦日《みそか》の作、歳旦の句は嘉永元年正月|朔《ついたち》の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病《やまひ》革《すみやか》なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。
 月今宵は少くも灑脱《しやだつ》の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の百足《もゝた》らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。
 短册の手迹《しゆせき》を見るに、壽阿彌は
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