十三日」で、並《ならび》に橋場長照寺に葬られた。日觀の俗名は別本に小林彌右衞門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林彌右衞門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林彌右衞門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と稱するものも別本に見えてゐる。「貞圓妙達|比丘尼《びくに》、天明七年|丁未《ていび》八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即《すなはち》是《これ》である。
 了蓮と定生との關係、清久の名を其間に厠《まじ》へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出來ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。
 わたくしが光照院の墓の文字を讀んでゐるうちに、日は漸《やうや》く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼《おうな》は、「蝋燭《らうそく》を點《とぼ》してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう濟んだから好《い》い」と云つて、わたくしは光照院を辭した。しかし江間、長島の親戚關係は、到底墓表と過去帳とに藉《よ》つて、明め得べきものでは無かつた。壽阿彌の母、壽阿彌の妹、壽阿彌の妹の夫の誰たるを審《つまびらか》にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。
 わたくしは新石町の菓子商眞志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本傳次に寄り、又轉じて金澤丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。眞志屋は衰へて二本に寄り、二本が眞志屋と倶《とも》に衰へて又金澤に寄つたと云ふ此金澤は、そもそもどう云ふ家であらう。
 わたくしが此「壽阿彌の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金澤|蒼夫《さうふ》と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金臺町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金澤丹後で、祖父明了軒以來西村氏の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。
 初めわたくしは澀江抽齋傳中の壽阿彌の事蹟を補ふに、其|尺牘《せきどく》一則を以てしようとした。然るに料《はか》らずも物語は物語を生んで、斷えむと欲しては又續き、此《こゝ》に金澤氏に説き及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札を佩《お》びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘默《かんもく》に附するに忍びぬからである。

     二十七

 眞志屋と云ふ難破船が最後に漕《こ》ぎ寄せた港は金澤丹後方である。當時眞志屋が金澤氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と稱し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衞と改めたことが、眞志屋文書に徴して知られる。文書の收むる所は改稱の願書で、其願が聽許《ていきよ》せられたか否かは不明であるが、此《かく》の如き願が拒止せらるべきではなささうである。
 しかし此五郎作の五郎兵衞は必ずしも實に金澤氏の家に居つたとは見られない。現に金澤|蒼夫《さうふ》さんは此の如き寓公《ぐうこう》の居つたことを聞き傳へてゐない。さうして見れば、單に寄寓したるものゝ如くに粧ひ成して、公邊を取り繕つたのであつたかも知れない。
 蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金澤氏が眞志屋の遺業を繼承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を受けた。金澤氏の年々受け得た所の二樣の鑑札は、蒼夫さんの家の筐《はこ》に滿ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印《らくいん》を押したものである。札は孔《あな》を穿《うが》ち緒《を》を貫き、覆《おほ》ふに革袋《かはぶくろ》を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。
 想ふに授受が眞志屋と金澤氏との間に行はれた初には、縱《よし》や實に寓公たらぬまでも、眞志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須《もち》ゐなかつたのではなからうか。兎に角金澤氏の代々の當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に歸したのである。
 眞志屋の末裔《ばつえい》が二本に寄り、金澤に寄つたのは、啻《たゞ》に同業の好《よしみ》があつたのみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たるべき定五郎は「右傳次方私從弟定五郎」と云つてある。皆眞志屋五郎兵衞が此の如くに謂つたのである。金澤氏は果して眞志屋の親戚であつたか否か不明であるが、試に系譜を檢するに、貞享中に歿した初代相安院清頓
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