畢《をは》つて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、錫杖《しやくぢやう》を衝《つ》き鳴らして去つたと云ふのである。
 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の戲作者《げさくしや》焉馬が、壽阿彌のためには自分の贔屓《ひいき》にして遣《や》る末輩であつたことは論を須《ま》たない。

     四

 次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、弔書《てうしよ》を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事に拘《かゝは》らなかつた證に充《み》つべきであらう。
 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。駿河國志太郡《するがのくにしだごほり》島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を大上《おほかみ》と云ひ、此を大下《おほしも》と云つた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は大上の檀那《だんな》と呼ばれてゐた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の妻ためは大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父|即《すなは》ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳父は置鹽|蘆庵《ろあん》で、母即ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳母は蘆庵の妻すなである。
 さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音《ぶいん》に打ち過ぎた。其《その》詫言《わびこと》を言つたのである。
 次に「清右衞門樣|先《まづ》はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候《なさるまじくそろ》」云々《しか/″\》と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶《なほ》不明の廉《かど》があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を公綽《こうしやく》と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬國出石郡《たじまのくにいづしごほり》出石の城主仙石道之助|久利《ひさとし》の世である。清右衞門は仙石家に仕へて、氏名を原|逸《はや》一と更《あらた》めた。頗《すこぶ》る氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。
 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話《ぢきわ》を骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金を獲《う》ることも容易ならず、束脩《そくしう》謝金の高くなることを言つたものである。
 大窪天民は、「客歳《かくさい》」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼《たびかせぎ》に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家|藏屋敷《くらやしき》の役人等が周旋して大賈《たいこ》の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫|義厚《よしひろ》の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの間《かん》ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。

     五

 天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通《すぐどほ》りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸《じやうご》は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜《たし》んだことがわかり、又※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜《せいい》、一に世夷《せいい》に作る、字《あざな》は希之《きし》、別に天均又|皆梅《かいばい》と號した。亦《また》駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》して知つた。
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