る。
 過去帳一本の註に據るに、五郎作の稱が此時より始まつてゐる。初代以來五郎兵衞と稱してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と稱し、後に壽阿彌もこれを襲《つ》いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。
 眞志屋の屋號は、右の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤|蒼夫《さうふ》さんの言《こと》に從へば、マの字に象《かたど》つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。
 東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公|宗翰《むねもと》の世になつてゐた。

     二十一

 眞志屋の七代は西譽淨賀信士である。過去帳一本に「實は東國屋伊兵衞弟、俳名|東之《とうし》」と註してある。東清の壻養子であらう。淨賀は安永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公|宗翰《むねもと》が明和二年に世を去つて、文公|治保《はるもり》の世になつてゐた。
 八代は薫譽沖谷居士《くんよちゆうこくこじ》である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家は舊に依つて治保《はるもり》の世であつた。
 九代は心譽一鐵信士である。此人の代に、「寛政五|丑年《うしどし》より暫の間三人半扶持御減し當時三人半被下置」と云ふことになつた。一鐵の歿年は二種の過去帳が記載を殊《こと》にしてゐる。文化三年十一月六日とした本は手入の迹《あと》の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺《まつさつ》し、傍《かたはら》に寛政八年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二年に水戸家では武公|治紀《はるとし》が家督相續をした。
 十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓譽淨本居士としたのが其一で、他の一本には此《こゝ》に淨譽了蓮信士《じやうよれうれんしんし》が入れて、「十代五郎作、後《のち》平兵衞」と註してある。淨本は文化十三年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八年七月六日に歿した人である。今|遽《にはか》に孰《いづ》れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な處がある。淨本の歿した年に、水戸家では哀公|齊脩《なりのぶ》が家督相續をした。
 これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、壽阿彌の五郎作が了蓮の後を襲《つ》いで眞志屋の十一代目とな
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