、目黒村の草菴《さうあん》に於て祐天の寂《じやく》したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名號は島が親しく祐天に受けたものであらう。
 島の年齡は今知ることが出來ない。遺物の中に縫薄《ぬひはく》の振袖《ふりそで》がある。袖の一邊に「三譽妙清樣小石川|御屋形江御上《おんやかたへおんあが》り之節|縫箔《ぬひはく》の振袖、其頃の小唄にたんだ振れ/\六尺袖をと唄ひし物|是也《これなり》、享保十一年|丙辰《へいしん》六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるべし、裔孫《えいそん》西村氏所藏」と記してある。
 島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。
 さていつの事であつたか、詳《つまびらか》でないが、義公の猶《なほ》位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇《いとま》を遣《や》つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦《よめ》、廓清の妻になつて、一子東清を擧げた。若し島が下げられた時、義公の胤《たね》を舍《やど》してゐたとすると、東清は義公の庶子《しよし》であらう。

     二十

 既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。頃《しばら》くあつて藤井紋太夫の事があつた。隱居西山公が能の中入《なかいれ》に樂屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。眞志屋の遺物寫本西山遺事の附録末二枚の欄外に、壽阿彌の手で書入がしてある。「家説云《かせつにいはく》、元祿七年十一月廿三日、御能有之《おんのうこれあり》、公羽衣のシテ被遊《あそばさる》、御中入之節御樂屋に而《て》、紋太夫を御手討に被遊候《あそばされそろ》、(中略)、御樂屋に有合《ありあふ》人々八方へ散亂せし内に、清休君一人公の御側《おんそば》をさらず、御刀の拭《ぬぐひ》、御手水《おんてうづ》一人にて相勤、扨《さて》申上けるは、私共|愚眛《ぐまい》に而《て》、かゝる奸惡之者共不存《かんあくのものともぞ
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