なしに昌林院の墓所にいけてしまつたのださうでございます。幾ら贔屓《ひいき》だつたと云つたつて、死骸《しがい》まで持つて來るのはひどいと云つて、こちらからは掛け合つたが、色々談判した擧句《あげく》に、一旦《いつたん》いけてしまつたものなら爲方《しかた》が無いと云ふことになつたと、夫が話したことがございます。」石は關口と云ふ後裔《こうえい》の名をだに知らぬのであつた。
 餘り長座をするもいかゞと思つて、わたくしは辭し去らむとしたが、ふと壽阿彌の連歌師であつたことに就いて、石が何か聞いてゐはせぬかと思つた。武鑑には數年間日輪寺其阿と壽阿曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]とが列記せられてゐて、しかも壽阿の住所は日輪寺方だとしてある。わたくしは是より先、淺草芝崎町の日輪寺に往つて見た。一つには壽阿彌の同僚であつた其阿の墓石を尋ねようと思ひ、二つには日輪寺其阿の名が一代には限らぬらしく、古く物に見えてゐるので、それを確めようと思つたからである。日輪寺は今の淺草公園の活動寫眞館の西で、昔は東南共に街《まち》に面した角地面であつた。今は薪屋の横町の衝當《つきあたり》になつてゐる。寺内の墓地は半ば水に浸されて沮洳《しよじよ》の地となり、藺《ゐ》を生じ芹《せり》を生じてゐる。わたくしは墓を檢することを得ずして還つた。わたくしは石に問うた。「若し日輪寺と云ふ寺の名をお聞きになつたことはありませんか。」
「存じてをります。日輪寺は壽阿彌さんの縁故のあるお寺ださうで、壽阿彌さんの御位牌が置いてありました。しかし昌林院の方にあれば、あちらには無くても好いと云ふことになりまして、只今は何もございません。」
 わたくしはお石さんに暇乞《いとまごひ》をして、小間物屋の帳場を辭した。小間物屋は牛込|肴町《さかなまち》で當主を淺井平八郎さんと云ふ。初め石は師岡久次郎に嫁して一人女《ひとりむすめ》京を生んだ。京は會津東山の人淺井善藏に嫁した。善藏の女おせいさんが婿《むこ》平八郎を迎へた。おせいさんは即ち子を負《おぶ》つて門に立つてゐたお上さんである。
 壽阿彌の事は舊に依つて暗黒の中にある。しかしわたくしは伊澤の刀自や師岡の未亡人の如き長壽の人を識ることを得て、幾分か諸書の誤謬《ごびう》を正すことを得たのを喜んだ。
 わたくしは再び此稿を畢《をは》らむとした。そこへ平八郎さんが尋ねて來た。前《さ
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