字《あざな》である。
次で置鹽棠園《おしほたうゑん》さんの手紙が來て、わたくしは※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の事を一層|精《くは》しく知ることが出來た。
桑原※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂、名は正瑞《せいずゐ》、字《あざな》は公圭《こうけい》、通稱は古作《こさく》である。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河國《するがのくに》島田驛の素封家《そほうか》で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは爲換方《かはせかた》を謂《い》ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。
菊池五山は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の詩と書と音律とを稱してゐる。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は詩を以て梁川星巖《やながはせいがん》、柏木如亭《かしはぎじよてい》及五山と交つた。書は子昂《すがう》を宗《そう》とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又|畫《ゑ》をも學んで、崋山《くわざん》門下の福田半香、その他|勾田臺嶺《まがたたいれい》、高久隆古《たかひさりゆうこ》等と交つた。
※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の妻は置鹽蘆庵《おしほろあん》の二女ためで、石川|依平《よりひら》の門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。
※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の子は長を霜崖《さうがい》と云ふ。名は正旭《せいきよく》である。書を善《よ》くした。次を桂叢《けいそう》と云ふ。名は正望《せいばう》である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が撰《えら》んだ。
桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里|許《ばかり》の傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て建立《こんりふ》した禪寺で、寺祿《じろく》をも有してゐる。桑原氏|累代《るゐだい》の菩提所《ぼだいしよ》である。
以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置鹽氏《おしほうぢ》、名は維裕《ゐゆう》、字《あざな》は季餘《きよ》、通稱は藤四郎である。居る所を聽雲樓《ていうんろう》と云ふ。川田|甕
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